神戸山手大学 都市交流学科 河上邦彦教授「中国に見る日本文化の源流」


[ 第10話 金印 ]
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 中国留学中に金印が見つかったといううわさを聞いた。その実物を見たいと思っていたが、機会がないままに年月を経た。そして、先日、南京へ行って、その金印を見せてもらってきた。
  現在、南京博物院に保管されている。展示もしていなくて、わたしの要請でわざわざ倉庫から出してきてくれたのである。

廣陵王璽

  一九八一年、揚州市外の千江県甘泉2号墓から出土したもので、「広陵王璽」と記され、一辺二・三センチ、亀の紐がある。この印の鋳造は文献などから紀元五十八年であると分かっている。とすると、日本出土の「漢委奴国王」の金印を奴国王がもらったのが、紀元五十七年(建武中元二年)のことであるから、広陵王のものは一年後になる。 ほとんど同じころに作られたものであるから、この字体はきわめてよく似ている。おそらく同じ官営工房で作られたものだろう。



 しかし、紐の形が違う。奴国王のものは蛇である。同じ金印なのになぜ、紐の形が違うのか。

漢委奴国王 ※
てん(さんずいに眞)王之印 ※
文帝行璽 ※

 漢代の印には二つの意味があるという。印は執政のための保証のようなものという。これをもって身分を明らかにするのだ。だから、漢の官人は印綬を持ち歩いていた。これを証明するかのように、穿帯印というものがあり、側面に穴をあけてあり、これにひもを通した印もある。

 もう一つの意味は封信である。封をするものに印を押した。だから、実際の印には信とか、私信という文字を記した印も見つかっている。そして、官の印は一定の制度があった。たとえば、大きさについても前漢初めの官印は1辺約二センチで漢の武帝以後は一辺二・三から二・五センチになった。つまり一寸の大きさにしたのだ。 
  だから、「漢委奴国王」印についても一辺二・三センチで、まさに後漢の一寸、だからこれは漢の官印であることが分かる。また、印面の文字についてもすべて白文、つまり陰刻であった。これらの印はまだ紙が普及していなかった漢代には封泥の上に押されたのである。封をするものの上に泥を置いて、それに印を押すのである。だから、白文の文字は泥上に押し付けると、突出して目立っていたことになる。白文は紙などに押すとあまり目立たないが、泥上だから必要であったのだ。

  さらに、これらの官印はその官を辞める時には返却することになっていた。だから、多くは印を返すのに先立って私印を作ったという。官印は普通銅製である。御史大夫ら二千石以上の官は銀印、諸候王・丞相らは金印であった。さらに皇帝の印は玉を用いた。印の紐の形には亀紐、鼻紐、覆斗紐は最も多く、亀紐は千石以上の官が使ったという。少数民族や外国の君主の印にはラクダ紐や羊紐、蛇紐が多いようである。中国北方地帯では駱駝紐が多いようである。漢委奴国王印は蛇紐、そして、前漢のものであるが中国・雲南省の石賽山出土の同じ金印の「憤王之印」は蛇、南海島で出土した印は銀印であったがこれも蛇紐であった。このことは、中国の周辺部の諸国には蛇紐の印を贈ったということを証明している。

 古代日中の関係から見れば中国の各王朝から贈られた印は、日本に二十個ぐらいあるように思う。本来は任官が終われば返すというから、その通りにしていたら日本には残っていないだろう。 
  しかし、任官したといっても、倭の王は直接支配されていたわけではないから、印を返す必要がなかったのかもしれない。だから、漢委奴国王印のように九州・志賀島から出土したのだろう。 ということは、まだ印がある可能性が強い。邪馬台国の女王・卑弥呼がもらったという「親魏倭王」の金印が大和のどこかで見つかる可能性はないとはいえないだろう。

※ 写真:文明のクロスロード Museum Kyushu 第19号 −博物館等建設推進九州会議 編集・発行− より


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